障害をギフテッドと捉えるために

ハンディキャップ(障害)は神様からのギフテッド(贈り物)だ!と言う言葉をよく耳にする。

そう捉えられることは、並大抵のことではなく、障害を持つ本人にとってはどうしても障害を足枷だと感じてしまうのが現実だ。

さて私の場合はもちろん最初は自分の障害を知って、神様からのギフテッドだ!なんて考えには至らなかった。そう簡単に自分の障害を受け入れて喜ぶ人はいないだろう。

もし自分の障害を即座に受け入れ感謝できる人なら、人生のどんな荒波をも受け入れる事ができる賢者になれるはずだ。

私は障害を知ってから感謝したことは、生きづらさに理由があったことくらいだった。ああ、だから生きづらかったのかな?と自分の人生を俯瞰することが出来たから。

そんなふうに最初は、障害を知ったからといって自分の中で何かが変わることは無かった。

ただ私は自分が障害者だと分かってから、自己理解をするために自分の障害についての本を読み始めた。

障害の知識を知ることによって、自分の生きづらさの理由が本の中で明らかにされていくのは驚きの連続だった。まるで自分の取り扱い説明書が存在しているかのようだ。

私はそこから、障害を持った人達がどう障害を乗り越えてきたかの本を読み始めた。

誰もが自分と他人のズレを苦しみ、疎外され孤立した経験を書いていた。私はどの人生体験にも共感できる節を感じ取った。それと同時に、いつまでも障害のことを言い訳にして生きていく訳にはいかないなと、自分を鼓舞するようになった。

障害を持っていても当然のことながら人生は続く。最後に言い訳しても、それは自分の人生であり、誰も自分の人生に責任なんてとってくれない。最後まで障害のせいにして人生から逃げ出すこともできるし、障害を乗り越えて理想の人生を辿り着けなくても目指すことはできる。

そうして始めたのが私の場合は本の制作だった。同じ苦しみを感じる誰かに勇気を与えられたら嬉しい。ただそれだけが始まりだった。

同時に誰かと一緒に人生を歩みたいとも感じた。障害を持っていても、やはりたった一人の人を幸せしたいと思った。私は「人の生きている理由とは他人を幸せにすることにある」というベンジャミンフランクリンの言葉を信じている。

一人の人を幸せにして、人生を共に歩んでいきたいなら、収入は不可欠だ。だから仕事をしっかりしたいと思うようになった。

気付けば私は障害を知らなかった時より、障害を知った今のほうが、人生に本気で取り組んでいると感じられるようになった。

障害を知らなかった時は、なんとなく生きていければいいと思っていた。人生はなりゆき任せだった。なんで人とズレているかなんて考えもしなかった。

障害を知ることで、私は自分は人生にしっかり向き合わなければいけないと感じられるようになったのだ。

今なら私はハンディキャップは神様からのギフテッドだと言う言葉を100%では無いかもしれないが受け入れられる気がするし、そうなんだろうとも思える。

人は何か大きな変化がなければ、日々をなんとなく過ごしてしまう。私の大きな変化は自分の障害を知ることであって、それを知ったから今という時間に自分の出来る事に、精一杯取り組めているのだ。

障害があっても、自分の人生は自分がどうにかしなければならない。幸せになりたいなら、考えて動き続けろ。後悔したくないなら、諦めがつくくらい努力して準備しろ。これで駄目なら仕方がないと諦められるくらいベストを尽くせ。

人生という物語は、いつも自分が何をするかで、喜劇にもなれば悲劇にもなる。歪曲した人生なんて望まない。ただ光があると信じて進んでいきたい。それが私の今の物語。