破壊と再生

生きていれば、多くのことがある。

多くの経験が自分の血肉となって、力となるだろう。

いろいろなことを知れば、それだけ物事を俯瞰して見られるようになるだろう。

その繰り返しで自分は強くなれる。そう思っていた。だけれど、それは違うようだった。

物事を知れば知るほど、その道理や法則を知るほど、自分の選択が狭まっていくことに気づく。

若い頃のように、無鉄砲になんでも挑戦出来るようになれなくなった。

それは知りすぎることが故に、なんとなく次の展開を予測してしまうようになったから。

大人になるとは、経験の上に立つことなのかもしれない。

歳を取ると、若い頃のように物事にワクワクしなくなった。

次の展開がなんとなく予想できるから。

この時はこうする。こうなったら、きっとこうなる。と。

なんでも、かんでも、無邪気に楽しむことが出来なくなった。

自分の生き方に慎重になり始めた。

同じ過ちを繰り返したくない。

同じで苦しみを味わいたくない。

そう思っている内に、周りを疑って掛かるようになる。

周りを信用しなくなる。

信じても、いつかは裏切られると、私の経験が私に言い聞かせる。

人から裏切られるのは辛い。

だったら、人を信用しない。

人を当てにしない。

それが傷付かない生き方だ。

私は自分にそう言い聞かせ続けている。今でも。

知れば知るほど、人との絆は脆いものだと感じてしまう。

いつかは終わる。始まりがあれば全てに終わりがあるように。

人を信じたら、始まりで。人に裏切られたら、終わり。

なら、始まりを切らなければいい。

始まらなければ終わりもない。

それが人を信用しない理由だ。

 

何かを知るとは、知識を得たような感じがして、得た気分になる。

しかし、何かを得たら、何かを失っていると私は思う。

得ることと、失うことは等価交換とさえ思う。

知らなければ、苦しむことはないし、悩むこともない。知らないのだから。

期待しなければ。それも一緒だ。

だから、何かを知れば知るほど、その逆も知ってしまうのである。

 

だから、全ては知らなかったことにしたい。

全ては失ったことにしたかった。

何もかも捨てれば、私はやり直せるのかもしれない。

全てを捨てることで、今までの思考を破壊したい。

いや、思考というより、弱い自分を終わりにしたかった。

どうしても、他人に淡い期待を寄せる、愚かな自分は終わりにしたかった。

 

続く