なんとなく選択してはいけない

過去の自分を振り返ると、

なんとも情けない気持ちになる。

僕は本気で何かを手に入れたいと

思ったことがなかったからだ。

 

いつも、まぁこんなもんか。

と、妥協案に徹してきた。

それは、もう、華麗なほどに。

いつからか、求めるものは、

決して手に入らないと

自分で諦めていたからかもしれない。

 

なぜ、決して手に入らないと考えるのか。

それは、望むものは、

それを望む誰かと対立した時に、

負けるのが分かっていたからだ。

 

例えば、そこに、ん、そうだな…

美少女でもいたとしよう。

その美少女は誰よりも美しく、

誰もがその、美少女に

お近づきになりたいとする。

でも、その美少女は一人しかいない。

誰もがその美少女と

お付き合いしたいと考えた。

僕も、その一人だ。

でもお付き合い出来るのは、

一人だけ。さぁ、どうするか。

 

僕は、早々に諦めた。

誰もが望むその美少女に、

僕という人間が選ばれるはずがない。

悔しい思いをするくらいなら、

早々に諦めた方が何も感じないで済む。

そう考える人間だ。

争いもしない、悔しくもない。

そっと自分の気持ちを忘れることに徹する。

 

この自分の心に蓋をする事に慣れたら、

それからは、自分の心がどう思っていても、簡単に蓋を出来るようになった。

 

人はこれを、忍耐や我慢と呼ぶ。

忍耐強いとか、我慢強いとか言えば、

聞こえはいい。

いや、きっと、聞こえを良くしたい誰かが、

こういう言葉を作り出したんだろう。

そうじゃなきゃ、

心に折り合いがつかないから、

強いとしているんだろうな。

 

忍耐や我慢が、強くなるとどうなるか。

心に惑わされなくなる。

どんな選択肢も、それなりに、

受け入れられるようになるだろう。

それもいい。僕は典型的な、それ、だ。

 

さぁ強くなった。

そうなれば行き着く先は1つだ。

妥協する力と、

受け入れが足しを受け入れる力がつく。

こんなものだ。とか、これでいいだろう。

とか、そんなふうに

考えられるようになった。

もう、理想は理想と切り分けられる。

自分の心が求めるものは、夢や理想となり、

現実を見ろという言葉が、分かり始める。

 

それでいいじゃないかって?

まぁ、悪くない。

大抵の人は、それ、が常識で、

そうじゃないと、夢見がちな人間になる。

 

そうなると、次は、自分が求めるより、

求められること、必要とされることに、

焦点を置くようになる。

受け身に物事を考えるようになる。

 

また美少女で例えると、競争を勝ち抜いて、

手に入れる理想。より、

自分に近寄ってくる、あるいは、

好意を寄せてくれる、いや、

なんとかなりそうな、

そんな、なんとなくいい女性でいいかと、

考え始める。

これは間違ってない。

身の程を知れ、とか、立場を弁えろ、とか、

まぁそんな言葉をかりると、

自分に見合った選択だと、

納得も出来るだろう。

納得するしかないのかも知れない。

 

何が言いたいかと言うと、なんとなく、で、

それがあたかも、

その選択肢しかなかったのだと、

自分を、納得させることができる。

理想と現実には、埋められない溝があると。

 

ただ、そうやって、なんとなく選ぶ結果は、

なんとなくな結果しかもたらさない。

仕方無い。

なんとなく出した答えなんだから、

帰ってきた、答えもなんとなく。だ。

そんな、なんとなくを繰り返したのが、

僕、だ。

だから、中途半端。

全ての、始まりも中途半端で終わりも、

中途半端。消化不良。

そんな、残念な生き方、か。

 

だから、自分にもう一度、

何かを追い求める、純粋さを、

取り戻したいと考えた。

なんとなく、や、求められることを、

辞めにしようと考えた。

自分が求めているものを、追いかけること。

それを望むことにしようと思った。

手に入らなくてもいい。

なんとなく中途半端を求めるなんて、

終わりが味気ない。

自分の心に蓋をするのは辞めにしよう。

求められるより、求める者に。

そうしなきゃ、消化不良は、治らない。

本気で求める。中途半端な答えから脱する。

たった1つの本物を手に入れたいから。

手に入れないと。報われない。