人と違う喜び、ズレている自分を愛すること

 

僕は何かにつけて

人と違うことは嬉しかった。


例えば僕は、

鬱病や強迫観念、

転職癖、

孤独主義、

休職経験、

そして発達障害


なんというか、

人があまり経験できないことを

自分は人生で経験していると思うと

凄く誇らしかった。

 

うん、我ながらズレている気が…

いやそんなにズレていないか?

 

正直、人の目は人一倍気になる。

僕、間違ってないか?とか

普通の人はこんなことしないよね…。

とか自問自答は沢山ある。


それでも自分がそうと決めたら

イノシシよろしくの如く

突進していってしまう。


それでよく、

「お前は周りが全然見えていない!」

「一つのことに集中しすぎ」と

どやされていた。

 

え!?

それの何が悪いの?

というのが正直な僕の反応だった。


人にとやかく言われるのは

大っ嫌いだったんだ。

 

なのに僕は不注意とか物忘れが

激しいからすぐに人に注意される。


とくに機敏な人と

一緒に何かするときは地獄だった。

 

マイペースな僕に対して

「遅い」「何してんだよ」など

非難の雨あられだ。


僕はプライドだけは高いので、

怒りが込み上げてくる。


喉まで出かけた怒りを飲み込み

「すみません」と

謝り続ける事ばかりだった。

 

一人ならどんなことだって

出来る気がしていた。

一人なら大抵のことは

乗り越えられる気がしていた。

 

だけど一人では生きてはいけないことも

最近理解できた。

 

人は自分の間違いを修正する力を

ちゃんともっている。

もし誰もが自分の考え方だけを

貫き通して生きていたら、

この世界は混沌としていて、

争いが絶えないのではないかと思う。

 

いや今の世界も争いが

絶えないところを見ると、

間違えを修正することで争いが

無くなることはないかもしれないが。

 

多くの人が同じ間違いを指摘するのは、

きっと理由がある。

本能的に危険を感じているから

間違っていると注意してくれるのだろう。

 

ただ僕にはその本能的なものが

いまいち機能していない。

 

だからなぜ、

人々はそれを間違いだと呼ぶのか。

その声を聴かないと

いけないと感じている。

 

それでも、

自分は間違っていないといえるなら、

その先へ進めばいい。


間違っているかもしれないと思ったら、

しばらく考えて引き返すことも出来る。

 

要は自分のやりたいことに

熱くなってもいいが、

熱くなる前に人の声を聴いたほうが

良いということだ。

 

情報はある程度集めておいたほうが良い。

何かを決断したり、

やり始めたい時は、

本でも人でもなんでもいい。


別の意見や自分が進もうとしている道を

ちょっと覗いておいたほうが

いいと感じている。


まあこれまでの失敗からようやく

学んだことがこんなことなのだが。

 

もし、

それでも進みたいと感じるなら、

それは正しい事なんだ。 


本当に自分が正しいと、

迷いも微塵も感じないなら絶対に

自分の良い経験になると僕は断言できる。

 

僕は自分の決断に後悔はしたことはない。

そうじゃないと

駄目だったんだって思っている。 


きっとこの道は

いつかは通ることが決まっていたのだと

考えている。

 

人とのズレは、

自分らしさや

人が歩みたくとも歩めない道への

切符だと僕は思う。


ズレていないと、

その他大勢の道にどうしても進みたくなる。

 

だって皆が通る道は

まあ安全は保障されているから。

 

ズレているというのは、

人々が望む安全を捨てられる

賢者でもあるといえる。


ズレているのは可哀そうなことではなく、 

むしろ偉大な事なのだ。

 

だから僕はズレていても構わない。

 

ああ、今日もマイウェイを

進むことになりそうだ。

 

ありがとう、ズレてる僕。